音楽芸術論その1


多くの音楽家の方に向けての私の主張である。もちろん、ここには自分自身への自戒も込めて書いている。この文章を見て、いくらか考えていただけることがあるならばうれしい。

音楽家としてプロとアマチュアの違いは何であろうか? それは音楽で生計を立てているかたてていないかだけの違いである。身の回りを探していただければすぐに見つかるであろうが、プロも顔負けのうまいアマチュアはたくさんいるし、プロとしてよくやっていけるよなというプロもいる。

共通な部分がある。それはともに音楽という芸術活動を行うという点である。

それぞれがどのように音楽という芸術活動をするかというのは立場によって少しずつ違う。作曲家は曲を書き、演奏家は演奏する。指揮者は演奏家をまとめ芸術的価値を高めていく。そのなかでも私は特に演奏家と指揮者に対して主張したいことがある。

作曲家が主張の対象にならないのには訳がある。作曲家は曲を作る。そのこと自体が芸術活動である。演奏家や指揮者がその曲の価値を認めないと演奏される機会はない。一度やったことのある人ならわかるであろうが、作曲活動というのはこつこつと新しいものを作り出すという産みの苦しみをめいいっぱい味わう。苦労したものが演奏されないとなるとせっかくの苦労が水の泡になる。必然的に作曲家は自分の曲の完成度を高めていこうとする努力が必然的に要求されるようになる。つまり演奏家のもとに届く曲というのは必然的に高い意識を持って作られた質の高いものだけに絞り落とされていく。

演奏家や指揮者は曲を演奏する芸術である。作曲者の作った設計図(曲)をもとに、図面(譜面)を読んで、意図された音の空間を実現する(演奏する)。そのことで聴衆に感動や満足感を与える芸術なのだ。

一応は楽譜が音になりさえすれば一応は演奏家として成り立てる。しかし、当然のことながら、そのレベルでとどまる意識の低い次のような演奏家が誕生する。

しかもさらに問題なのはこのような意識の低い音楽家に限って人と打ち合わせすることをいやがる。しても聞く耳を持たないし、言っていることも筋が通らない。もっときちんとやれと言うと「私はそのレベルではないから」と逃げる。

早い話がこの人たちは自分だけ満足できればいいのである。そして、こういう人たちがよく演奏会の選曲をするときには「自分たちが満足しなければ客は満足しない」と言って選曲する。ある程度正しいが、この意見は重大な視点を欠いている。わざわざ演奏を聴きに来てくれるお客さんを満足させなければならないという視点である。つまり「自分たちが満足する曲の中から、お客さんが満足して帰ることができるように選曲する」ということが必要なのだ。そうしないといつまでたっても演奏を聴きに来てくれるお客さんは増えないし、そもそも演奏家としての役割を果たせない。

作曲家は演奏されるような作品を生み出すのに、膨大な時間とお金と注意力、神経を使う。そうして完成した作品が、演奏家の前に届くのである。楽譜から作曲家の意図をくみ取ろうとしないのは、作曲家に対して敬意を払っていないと言うよりはむしろ侮辱行為である。作曲家が作曲することにこだわるのだから、演奏家はそのことを真摯に受け止め、演奏することにこだわらなくてはならない。そのことによって聴衆は感動したりするのではないだろうか?(こだわると言うことが練習するということと直接つながるわけではないことは誤解しないで欲しい。こだわった結果、必要であれば練習するのである。)

しかし、私を含め多くの演奏家はどうであろうか? 作曲家のこだわりに、正面から向き合える演奏についてのこだわりを持っているだろうか?

私は胸を張ってこだわっていると言えるようにがんばりたい。


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